日本の約5倍の国土に2倍の人口を抱えるインドネシア。首都ジャカルタはASEANの本部もある経済の中心地。東京に次ぐ世界第2位の人口密度の大都市で、若年層が多く、活気にあふれています。
日本、ロンドン、ニューヨークのサロンで経験を積んだ坂手遼治さんが店を構えたのは、そんなジャカルタの南部、インドネシアの代官山と呼ばれるスノパティ通りでした。
今年4月で「HAIR LOUNGE Ryoji Sakate(ヘアラウンジ リョウジ・サカテ)」1号店が4年目を迎え、4月20日に2号店を出店した坂手さんに、その道のりと海外で美容室を経営するということについて聞きました。
目次
①美容師になること、海外に行くことはワンセットで始まった
── 海外に行きたいと思ったのは、いつごろからですか?
ロンドンへの漠然とした憧れがあって、中学生のころから「トレインスポッティング」や「リトル・ダンサー」なんかのイギリス映画を観ていました。ブリティッシュロックやファッションが好きでしたね。
海外に行くと言い出したのは高校生になったころ、夢見がちなころです(笑) 大学では経営学か心理学を学びたいと思っていました。
── そこに思わぬ転機が訪れます。
高校1年生、16歳の時に父親が亡くなりました。
進学校だったので1年生から進路相談があるのですが、父親が亡くなってから日も浅くて母親は来られず、先生と2人での面談でした。
進路を変えないといけないかなと思い「専門学校に行きます」と言ったんですが、何がやりたいとかなかったので何の専門学校にするかは考えていなくて。そうしたら先生が「美容師なら、海外で活躍している人もいるよ」と。
たぶん、美容師になって海外に行った教え子がいたんじゃないかと思います。いい先生でした。それが、僕が美容師を目指したきっかけです。
── 坂手さんにとって、美容師になることと海外に行くことは一緒にスタートした夢だったのですね。
最初はワンセットでしたね。でも20歳で大阪から東京に出て、南青山のヘアサロンで働き始めた時には、海外に行くというのはもう頭にありませんでした。夢見がちな高校生のころと違って「実際、海外なんて行けないでしょ。そんな簡単じゃない」と思うようになっていました。
でも・・・東京で遊んでいると英語をしゃべれる人が多くて、悔しいと思うことも。そんな時、事故で足を骨折して入院したんです。
── 東京に出て3年目、スタイリストデビュー目前のことでした。
すでにジュニアサロンではお客さんのカットを、本店でもモデルカットをしている段階でした。
退院後は足を引きずりながら意地で店頭に立ったのですが、半日で、ゾウの脚みたいに腫れ上がって。このまま朝から晩まで立ち仕事をしていたら一生足が治らないと思い、店を辞めました。
そのころ、ちょうど仲のいい友達がロンドンに語学留学するというので、自分も行くことにしたんです。正式にスタイリストデビューする前でしたが、青山のサロンは要求水準が高く、他の地域ならスタイリストとして通用する腕になっているという自信はあったので。
父親の死がなかったら、ケガで店を辞めていなかったら、今の自分にはなっていませんでした。そう思うと、この二つが人生のターニングポイントでしたね。
②ロンドン、そしてニューヨークへ
── ロンドンでは語学学校に通いながら、日本人オーナーのサロンで働いたそうですね。
朝8時から学校で学び、12時から19時、20時くらいまでサロンで働くという毎日でした。
日系サロンですが顧客のほとんどはイギリス人。価格が安く、30分でお客さんを1人で仕上げるような回転重視の店だったのでハードでした。
まだ英語が話せないと伝えているのに「電話出て!」と言われるので、見よう見まねでこなすしかなかった。スパルタでしたね。ロンドンで3年働きましたが「これだけ英語が話せる美容師はそうそういない」と思えるくらい英語力がつきました。
あ、英語力っていうのは話す方です。語学学校は面談でスピーキング、エッセイで文章力を見てクラスが上がるのですが、エッセイが話し言葉で書かれていると言われたりして昇級できませんでした(笑)
── ロンドンで3年を過ごし、ビザを取るため2010年に一時帰国。そこからニューヨークに向かったそうですが。
ワーキング・ホリデーが人気で、2カ月経ってもビザが取れなくて。その間、業務委託サロンでフリーランス美容師として働いていたのですが、同僚にニューヨーク帰りの人がいて勧められました。
「ニューヨーク楽しいよ」と言われても全然興味なかったのですが、ロンドンには戻れないし、日本に居る気にもならなかったので、じゃあ行くかと。
── 縁もゆかりもない海外の街へ行くことに不安はありませんでしたか?
当時はびっくりするくらい自信満々だったんです。英語を話せるし技術的には即戦力なので、絶対お客さんが付くという自信があり、何も心配していませんでした。
でも最初に行った店の面接には落ちました。たぶん、生意気そうに見えたんだと思います(笑)
その後はすぐに決まり、ニューヨークに着いて1週間で働き始めました。ロンドンの時と同じく日系サロンでしたが、お客さんはアメリカ人です。
ニューヨークは、行ってみたら想像の100倍おもしろい街でしたね。文化があって、衣食住それぞれに置く価値のバランスがいいんですよ。
── ニューヨークでは新店のオープンを手がけたそうですね。
3年目を迎え、この街で独立しようと思い始めたころ、店を拡張移転するという話が出ました。経営に必要な実験ができるチャンスだと思い、手を挙げたんです。
それで、カット料金を20%上げました。
高級店ではない普通の白人系サロンが80~100ドルなのに対し、僕が働いていた店は50ドルだったんですね。
相場で考えたら絶対安い。たとえ値上げでお客さんが多少減っても売り上げは維持できるはず。結構もめましたが「絶対、大丈夫です」と押し切りました。
経験の浅いスタイリストは50ドル、ベテランは65~80ドルと幅を持たせて全体で2割の値上げを実行。結果、新しいお客さんも増え、僕が辞めるころには売り上げが以前の1.5倍になっていました。この経験があるので、僕は値上げすることに対してそれほど悩みません。
③突然のジャカルタへの誘い
── 手ごたえを得て、いよいよ独立の準備です。
ここでまたビザの問題が起きました。
ビザには種類があるのですが、就労する上で持ちたいビザは、1000万円を目安に投資して会社を設立しないと取得できない。サロンの内装費用なども含めての金額ですが、とても用意できないし借りられる当てもない。
とりあえず日本に帰ろうと思っていた時、知人から「ジャカルタに興味ない?」と電話がありました。
── それはまた突然の誘いですね。その知人というのは?
実はロンドンから一時帰国していたころ、恵比寿のシェアハウスに住んでいたのですが、その時の仲間です。
シェアハウスが走りのころで、安いからではなく、シェアハウスというものに興味のある人が集まっていました。実際、賃料は高かったですし、寮みたいに大きなところでした。
当時の入居者からは、シェアリングエコノミーの有識者、一風変わったホテルの仕掛け人など、今では“時の人”になっているメンバーが出ています。広告代理店やIT企業の人もたくさんいました。その仲間たち数人でジャカルタを視察しようという話になったわけです。
── シェアハウスで知り合った皆さんは、なぜジャカルタに関心を持ったのですか?
ジャカルタには、大きなポテンシャルがあります。
インドネシアには2億5000万人以上の人がいて若い世代が多い。経済も毎年、GDP成長率5%以上で発展している。少子高齢化や人口減が進み、経済が停滞している日本とは対照的です。おもしろそうだと思いました。
ビザが切れるタイミングで店を辞めることにし、帰国後、速攻でジャカルタに視察に行きました。
── ロンドンやニューヨークで働くサロンを探したときと違い、今度は坂手さんが自分のお店をつくり、ビジネスを始めるための視察です。
最初は軽い気持ちで行ったんです。ノリの塊でした(笑) でも初回の3週間の視察で偶然の出会いが重なり、場所やパートナーなど話がどんどん進んだんです。
ふらりと入ったバーの内装がかっこよかったので「マネージャーと話をさせてもらえる?」と声をかけたら、その人がオーナーだったり。
「空き物件があってテナントを募集しているけど見るか?」と言われ、その物件というか廃墟みたいなところをバー風に改装したのが1号店です。視察1週間目の出来事でした。
また、信頼できるパートナーを見つけることが大事なのですが、日本人と結婚したというインドネシア人男性と出会い、彼が起業のパートナーになりました。