業界としての影響力を示した「カリスマブーム」

特集・インタビュー
業界としての影響力を示した「カリスマブーム」

【新春 特別企画】
この先を知る。過去を知れば未来がわかる。

ウエラジャパン営業副本部長、資生堂プロフェッショナル常務取締役営業戦略本部長を歴任した春田牧彦氏(ピンポン社長)が、美容業界の歴史を振り返ります。

美容師とヘアデザイナー、2つのベクトル

サスーンの技術が浸透する過程で、日本の美容業界のベクトルは二つに分かれます。

一つは「技術者」というベクトルです。カットやパーマなどの技術に価値を持ち、その技術追求に向かう人たち。美容師さんです。

こうした流れで師が生まれ、流儀が別れ、技術者集団・美容団体を生み出し、多くの美容師がそこに関わり、懸命に新しい技術を身に着けていったのがこの時代です。

もう一つは「モード系」。言わば、ヘアデザイナー。

彼らは店に特徴を打ち出し、アパレルのようにデザインを極め、ヘアスタイルを商品として捉えました。ショップをブランド化し、お洒落なインテリア、お洒落な美容師、そして店として主張のあるヘアデザインを提供したのです。

技術系の店とモード系の店、美容師さんとヘアデザイナーというベクトルです。

1970年代半ば、モード系美容室の登場

モッズヘアが原宿のラフォーレに店を構えたのは1976年です。

SHIMAの1号店は1971年ですが、吉祥寺を経て銀座に店を出したのは1976年。青山に店を出したのは1980年。

PEEK-A-BOOの1号店は1977年でした。

このように1970年代後半から、モード系の店が青山・原宿といったファッションエリアに軒を連ねるようになったのです。

しかし、この時代はまだ技術に重きを置くことに美容師が価値を持っていた時代。

一部のファッション誌で取り上げられるモード系、デザイナーズ展開が関心を集めたものの、現実の市場では大きな影響力を持っていませんでした。

1990年前後、カリスマブームに火が付く

美容室が集中する表参道原宿エリア

流行の発信地、青山・原宿エリア。かつてのブームで、カリスマ美容師はファッションの中心に躍り出た

しかし、1990年前後にこのモード系の店が一気に主役に躍り出ます。それがカリスマ美容師ブームです。

時はバブルがまだ残る時代。“青原”を中心としたエリアのお洒落な美容室、そしてルックスのいい美容師をファッション関連のメディアが取り上げ、一気にこのブームを巻き起こすのです。

美容室、美容師をテーマとしたこのシンデレラストーリーは、木村拓哉主演のテレビドラマ「ビューティフルライフ」、美容師が技術を競うテレビ番組「シザーズリーグ」などに発展してブームを過熱化。

その最盛期は、表参道の交差点を起点とした半径500メートル四方に1500店舗が軒を連ねたと言われています。

ブームは地方にも飛び火し、各地の主要商業エリアでは、青原同様にモード系のデザイナーズサロンがひしめきます。

こうした影響から美容師に憧れた入学希望者が殺到。一部の美容学校では、競争率が10倍を超えるなど、今では信じられない事態を巻き起こすのです。

カリスマ美容師は肌で流行を感じていた

モード系のデザイナーズ展開から登場したカリスマ美容師。

その優れていた点は、技術ではありません。彼らはお客様をかわいくする、キレイにするという審美眼に長けていたのです。

それはなぜか? 彼らは日本のファッション最先端の青原という地で一日を過ごし、ファッションへの意識が高いお客様を相手にしていました。肌でファッションを学び、最先端の流行を感じていたからです。

彼らの売りは、技術ではなくセンスなのです。

無免許問題で美容業界は情報発信力を失う

2000年を前に、残念ながら一部のカリスマ美容師の無免許が発覚し、このカリスマブームは終焉します。

それによって、彼らの持っていた審美眼(流行発信)の影響力は力を失っていくのです。

これは美容業界に大きな打撃を与えます。

それは市場に影響を与える情報発信力を失ったことです。

ここから美容業界は影響力を低下させ、迷走を始めるのです。

春田牧彦(はるた・まきひこ)
株式会社ピンポン代表取締役社長。日本大学経済学部卒。ウエラジャパン営業副本部長、資生堂プロフェッショナル常務取締役営業戦略本部長を歴任。2012年、(株)ピンポンを設立。美容業の持つポテンシャルを生かす情報と具体的戦略を提供する。

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