笠本善之(かさもと・なおゆき)さんの長い長い美容師人生。これまでの道のりを語っていただいた前編、中編に続き、今回は、笠本さんの現在に焦点を当てる。
アトリエサロン「private.」のこだわりと経営の考え方、美容師のキャリア論に迫る。
目次
有名サロン店長の座をあっさり手放す
銀座のど真ん中、並木通りに面した170坪の大型サロンの店長。誰もがうらやむポジションだが、笠本さんはあっさりTAYAを退社してしまう。
結局はサラリーマンですからね。余計な仕事が多い。出世欲もないので先がもう見えている。それに、上が居座っていると下が上がってこられないんで、「どかなきゃいけないな」って思っていた。
数名のアシスタントがつき、多いときには9人のお客さまを同時に施術する日々。店長時代は目の回るような忙しさだった。再び自分の店をもつにあたって、笠本さんは真逆を選んだ。
たくさんのお客さまの同時施術ではなく、濃い1本でやっていこうと決めたんです。
笠本さんがひとりサロンとして、銀座にアトリエサロン「private.」を立ち上げたのは2022年9月のことだった。
上質な時間を過ごしていただく
アトリエサロン「private.」はセット面2席の完全マンツーマン対応で、1日の予約は4人まで。場所は非公開で、新規顧客は紹介でしか受け付けていない。
お客さまの平均滞在時間は3時間。芯からくつろいでいただくために、笠本さんは細部までこだわった。シャンプー台など施術に関係する什器はもちろん、店内のインテリア、香り、BGMの選曲や音量、そして、施術する笠本さん自身のルックスや所作……。笠本さんは、お客さまの五感すべてに働きかけ、上質な時間を演出する。
お客さまは、バカラのグラスで好きな飲み物を楽しみながら極上の時間を過ごす。笠本さんはこのサロンを職場でも家庭でもない「サードプレイス」だという。
居酒屋みたいに何か、表面だけの話じゃなくて、もっと「こう思うんだよね」という話をしたり、友達じゃないけど友達という感じ。
お客さまの9割が、長年のおつきあいだ。結婚してお子さんを連れてくるようになったお客さまもいれば、親子二代で、ずっと通ってくれるお客さまもいる。なかには、「もし急に来なくなったら、お迎えが来たと思ってくれ」と冗談を言う高齢のお客さまもいる。
20年来のお客さまばかり、その人の人生を見ている感じになりますね。
「人時生産性1万円」を死守する
「private.」の客単価は平均3万5000円。高級店がひしめく銀座でも高額な料金設定だ。
時給1万円は死守というか、東京の都心でやるには、人時生産性1万円じゃないと無理です。
1時間あたりにどれだけ稼ぐかを指す人時生産性。経費などの兼ね合いもあるが、カット1万円で平均滞在時間が2時間の店で2名同時に施術するなら、売上は2時間で2万円、技術者が1名なら人時生産性は1万円となる。
客単価を下げ、回転率を上げ、スタッフの人数を増やして対応するのが、大型店や大規模チェーン店のやり方。それとは対照的に、客単価を上げ、回転率を下げ、スタッフの人数を減らしたのが、現在の笠本さんのスタイルだ。
高回転で薄利でガンガンやっていくパターンと、低回転で手厚い仕事をしていくのと、どっちが正解ですか? って、両方正解なんだけど「でもおまえ、60歳から薄利多売ではできんやろ。腰もギクってなるじゃん」みたいな。だったら手厚い仕事をゆっくりやったらいいんじゃないですか。
同じ1日10万円上げるにしても、5000円を20人やるのと、3万円を3~4人と、どっちがいいですかって、20人と4人ですよ。そりゃ4人のほうが楽だよ。上限も決まってくるけど。
高価格でもお客さまに選んでいただくにはどうしたらいいか。笠本さんは自己分析と研究を重ねた。それが「private.」の居心地の良さにつながっている。
店販は美容師としての責任だ
売り上げを商品の販売で補完するという考え方もある。しかし、笠本さんは物販を売り上げの柱にしようとは思っていない。理由は利益率だ。
例えば3500円のトリートメントを100本売っても35万円。それが丸ごと自分の懐に入るわけじゃない。7掛けなんで24万円は抜かれちゃう、7万円しか手元に残らないんです。同じ売り上げで考えても、カット&カラーは10人やったら35万円です。利益率が全然違う。
利が薄いにもかかわらず、シャンプーやトリートメント、オイルを販売しているのは、「美容師としての責任感」だという。
美容師がお客さまの髪に携わることができるのは、せいぜい月に1回。1年のうち350回は、お客さまが自分でシャンプーするわけですけど、目が届かないところなので、その責任は取れないですよね。だから店販品を販売して、使うものと使い方を教えます。次にお客さまが来店してきたときに「いいお手入れしてるね」って伝えると「よかった」ってなります。
お客さまが自分自身でどうお手入れするか、そこに無頓着な美容師が多いのではないか、と笠本さんは考えている。
続けるコツはわんこそば
笠本さんは来年還暦を迎える。50代後半になっても現役の美容師でいられる秘訣、続けるコツはどこにあるのか。
もっと視野を広げて未来の目標を立てて……みたいなことをいうのが普通だけど、僕は逆だと思っている。目の前のことに夢中になる。楽しむ。視野を狭くするのが続けるコツ。
笠本さんはそれを「わんこそば」に例える。
デカい丼いっぱいのそばをドーンと出されても「こんなに食えねえ」ってなりますよ。でも、わんこそばなら、ちょっとずつ100杯ぐらいいける。結局、デカい丼と同じだけの量が食える。大きな丼ではなく、視野を狭くして目の前のわんこそばに夢中になる。それを、絶え間なく続けることで、気づいたら大量のそばを食ってるじゃないか、というのと一緒ですよ。
毎日の積み重ねがごく薄い紙だとしても、40年重ねればぶ厚くなるじゃん、というのが僕の持論なんですよね。先ばっかり見ているから足元が見えないんです。30年後なんて誰も予想つかない、明日生きているかもわからない。だったら、今この瞬間を本当に味わう、楽しむ、一生懸命やるのがいいんじゃないか。それが、僕が長く続けるコツです。
「今」に集中する姿勢は、もしかしたら20年連れそって8年前に病死された奥様の影響もあるのかもしれない。
妻にも先延ばしにしたことがきっとたくさんあっただろうし、僕も妻と一緒にできなかったことがいっぱいあるんだけど、だから余計に思うのかもしれません。自分の大切な人は永遠にいるわけじゃない。自分のこの環境は永遠にあるわけじゃない。本当に今が大事だ、という気持ちは強くなりましたね。
サロンワークの楽しさは、お客さまの笑顔
毎日、目の前にいるお客さまに夢中になって楽しむことが、続けるコツだという笠本さん。では、笠本さんにとって、サロンワークの「楽しさ」とは何なのか。
やっぱり、「スン」という顔で来た人が「満面の笑顔」で帰るという変化です。「スン」ってしていればしているほど「大丈夫ですから、楽しみにしてください」って期待感を出して、最後は「ここに来て良かった」って笑顔になってもらう。そこが、この仕事の醍醐味じゃないですかね。
目の前が大事だから、10年後20年後の抱負は「ない」。
先の抱負というよりも、日々忘れないことは、目の前の、この今を思いっきり楽しむ、味わう、それだけですね。今が一番楽しいです。なので、明日はもっと楽しい、来年はもっと楽しいだろうなって。
僕の背中にヒントがあればいい
3回にわたり、笠本さんというスゴ腕美容師の歩みや考え方を紹介したが、笠本さんは自分自身を「天才ではなく、ただ積み重ねてきただけ」という。
世界を美しく変えるとか、そんな大それたことは全然思っていない。僕の背中に「自分にもいけそうな気がする」って思えるようなヒントがあればいいなって。このインタビューを読んで、1人でも2人でも「自分はどうするのか」考えるヒントを見つけてくれたら。
笠本さんはこれからも、後に続く人々にしっかり「背中」を見せてくれるだろう。
笠本 善之
private. 代表
かさもと・よしゆき/1965年生まれ、山口県出身。17歳で美容業界に入り、数店舗を経て25歳で独立。5年後に閉店し福岡に活躍拠点を移した後、TAYAグループに入社。39歳で上京して「GRAND TAYA」の店長に就任。2022年9月、銀座に住所非公開のアトリエサロン「private.」をオープンする。
インスタグラム:@kasamotoyoshiyuki
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取材・文/大徳明子 文/曽田照子 撮影/上米良未来