17歳で美容の道に入り、来年には還暦を迎える笠本善之(かさもと・なおゆき)さん。現在は銀座に住所非公開のアトリエサロン「private.」を構え、自分のペースでサロンワークをして客単価は平均3万5000円だ。
前編では、25歳で自分の店を持つまでの道のりをたどった。その後、笠本さんは店を売却し、名門サロンで腕を振るうことになる。今回はTAYAへの入社から退職までの日々についてうかがった。
目次
店を売却、福岡で模索の日々
25歳で自分の店を出店した笠本さん。店は繁盛していたが、笠本さんは閉店・売却を決意した。理由は経営ではなく、プライベートなこと、離婚だった。
店を出して5年か4年経ったころかな。閉店するまでの間に借り入れを全部返済したので借金ゼロの状態で売却して。売却益が出たから、それを持って福岡に行きました。
狭い街では、さまざまな噂が立つ。そこで、笠本さんは山口を出ることにした。東京へ行きたい気持ちもあったが、まずは、よく知る福岡に居を移すことに。住まいを確保するため、寮のある美容室に入った。
その店にいた4年間は「俺の居場所はここじゃない」って思っていろいろ模索していました。
当時の笠本さんは、東京への憧れを抱いていた。
経済、ファッション、もちろん美容も。東京って日本の頂点だから、そこにいけば世界にもつながれるんじゃないか、みたいなところがあって。未知の場所に住んでみたい、そこで美容師としてやってみたいという思いもありました。
TAYAに即決で採用される
東京の美容室のスタイリスト募集や、メーカーのインストラクター募集などに応募したが、採用はされなかった。
そんなとき、ふと目にした雑誌で、TAYAの「教育ディレクター募集:1名」の求人を見つけた。TAYAが教育セクションを新しく作る、その、九州支社30数店舗を担う人材の募集だった。
笠本さんは以前、TAYAのスタイリストに応募して不採用だったことがある。しかし、全く気にしなかった。
履歴書を送ると、すぐに「この日に本社の教育の長が東京から来ます」と連絡があった。面接には、東京本部の技術教育部担当の取締役と九州支社長がいた。笠本さんの採用は即決だった。
後日、人事部から正式な書類が届き、驚いた。面接時に口頭で伝えられた条件よりも高額な給与が書かれていた。
36歳、ボコボコにされて、泣きながら竹下通りを歩く
晴れてTAYAに採用された笠本さんは、東京で研修を受ける。
研修初日。「自分が得意なカットのプレゼンをしてください」といわれた笠本さんは、カットを披露しようとした。しかし、ハサミを入れるか入れないかのうちに「違う。もういい。大丈夫です」と、止められてしまった。
早かった。日曜の「NHKのど自慢」のあの鐘が「カーン!」っていうより早かった。
研修担当者の言葉は厳しかった。「自分で切る技術はすごくあるんだろうけど、相手に伝える、相手が理解して形にするというところまでは達していない。全然ダメです」
自分ができるのと、相手が理解し実践できるよう伝えるのは違う。
それなりにできると自分では思っていたんですが、「全然ダメです」ってボコボコにされて、帰り道に涙が出てきたんです。36歳で泣きました。竹下通りを原宿駅まで、涙をポロポロこぼしながら歩きました。「ちきしょう」とか言いながら。
その悔しさは笠本さんのバネになった。研修中は、切っては見せ、その伝え方にダメ出しをされて、また切った。
もう完全に更地にされて、柱も残ってないから、またイチから作り直した。それは僕にとってすごく貴重なものになりました。
ギャラが2.5倍になった
そんなハードな研修を受けながらも、笠本さんは店舗マネジメント面では即戦力としての働きをしていた。
当時、TAYAは出店ラッシュ。笠本さんは、TAYA田園調布店など新店オープンに立ち上げのリーダーとして関わり、ディレクションや研修、外部との折衝を任される。
全国に次々と店をオープンするなかで、「九州地区を任せられる人材」としても笠本さんは大いに期待されていた。
研修が終わり、九州に戻った。当時、会長の肝いりで、オリジナルのシステムトリートメントを発売した直後だった。笠本さんは、九州エリアの30数店舗で数字を持たされたが、なんなくそれをクリアする。
客単価もどんどん上がり、当然のように笠本さんの評価も上がっていく。肩書きは「技術教育部長」となり、収入もアップ。TAYAへの入社前にいた店の2.5倍になった。
「会長、この会社でやることなくなりました!」
TAYAではありとあらゆる業務を任された。メーカーの協力を得て九州・沖縄地区でセミナー開催したり、美容学校の課外授業としてTAYAコースを開いたり、さまざまな営業をかけて数字を上げていった。
その間に、スタッフからの相談ごとへの対応や、自身のサロンワーク、さらに月に3、4回の東京出張もあった。楽しく、忙しく、しんどい毎日が続く。
そして4年が経った。人材が育ち、笠本さんがやってきた仕事は後輩でもできるようになった。笠本さんでなければならない仕事は、もうそこになかった。
東京出張の折、笠本さんは直談判をする。
「会長、あのー、やることなくなりました」
「そうか。あのさ、内緒だけど、今度すごい店を銀座に出すんだよ。来ないか? 東京でどれだけ通用するか、やってみた方がいい」
その言葉に背中を押されて、39歳で上京。笠本さんは、銀座に170坪という広さを誇るTAYAのハイブランドサロン「GRAND TAYA」の店長となった。
カット1万円。顧客ゼロでスタート
笠本さんは、福岡ではカット6000円。相場よりもかなり高い。それが銀座では1万円に。
さすがに高すぎるのではないかと不安になり、「福岡との間を取って8000円でどうです?」と弱気な提案するも、すげなく却下された。
1万円で大丈夫かなと思ったんだけど、よくよく考えたら、僕、そもそも東京の顧客がいない。「だったら逆に2万円でも3万円でもいいじゃん?」って思ったんですよ。
「ご祝儀」として、九州から来てくれる人はいた。しかし、東京の顧客はゼロからのスタートだった。
あらゆる手を使って、自分の価値を高める
カットが1万円なら1万円の価値があるサービスを提供するしかない。技術は当然として、それ以外の面でも、笠本さんは顧客満足のために、自分の価値を上げることを決意した。
自分自身の「全部」を磨いたと笠本さんは言う。
ドラマや映画で「感動」を呼ぶ行動や言葉について考えた。
高級店にがんばって通い、サービスの所作を目で覚えた。
嫌な経験もしたが、すべてが反面教師となり、ありがたかった。
五感で受けた印象を何度もくり返し反芻することで、自分のものにしていった。
動画を撮って自分自身の姿を客観的に眺めた。
自分自身とサービスの質を徹底的に向上させていくことで、ひとり、またひとりと顧客は増えていった。
順風満帆だった。
しかし、忙しすぎた。笠本さんは大型店の頂点にいながら「俺は、本当にこれでいいのか?」と思い始めていた……(つづく)
笠本 善之
private. 代表
かさもと・よしゆき/1965年生まれ、山口県出身。17歳で美容業界に入り、数店舗を経て25歳で独立。5年後に閉店し福岡に活躍拠点を移した後、TAYAグループに入社。39歳で上京して「GRAND TAYA」の店長に就任。2022年9月、銀座に住所非公開のアトリエサロン「private.」をオープンする。
インスタグラム:@kasamotoyoshiyuki
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取材・文/大徳明子 文/曽田照子 撮影/上米良未来