1950年(昭和25年)に故・横田冨佐子氏によって創業され、現在は「YOKOTA」を都内に2店舗、「mani CREARE(マニ クレアーレ)」を東京と仙台に4店舗展開するビューティ横田。
さまざまな美容団体の要職を務めてきた横田敏一代表に、これまでの歩みと現在の美容業界の課題などについて、じっくり話をうかがった。
私はビューティ横田の二代目です。創業者である母の横田冨佐子は、1950年に「フサ美容室」を開業して以来、美容師による洋装花嫁(ブライダル)を提唱するなど、精力的に活動してきました。一昨年に94歳で逝去しましたが、コロナ禍でお別れの会が開けず、8月1日にようやく出来たところです。
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美容師になろうと思ったのは、大学に入った後です。都立日比谷高校から慶應義塾大学経済学部へ進みましたが、戦後の大企業同士の合併で役員になる一歩手前で降格の憂き目にあった父を見て「大企業の歯車のサラリーマンは嫌だ」と思いました。
横田冨佐子から先々の事業展開で頼られていたこともあり、美容の道に進むことを決め、在学中にスクーリングを受けて美容師免許を取得しました。
ただ、免許を持っていても、美容室で働いていたわけではありませんでしたので何も出来ません。母のツテでどこかのサロンに勤めても、きっと迷惑をかけてしまう。そこで、知り合いに紹介されたサンフランシスコの「マリネロ」という小さな美容学校に入学しました。1972年、大学を卒業してわずか1週間後のことです。
アメリカはOJT(オンザジョブトレーニング)方式。先生がチェックカットに立ち会い、実際に髪を切っていきます。ある日、90歳過ぎと思われるお婆ちゃまがいらしたのですが、肌も髪も真っ白で境目が全くわかりません。ボブカットをしていると変な手応えがあり、プチッと耳たぶに赤いものが…。
ああ、やってしまった、どうしよう。でも本人は気づいていない。黙っていようか、言うべきか。迷ったあげく正直に伝えたら、とたんにポーと頬に赤みがさして境目がはっきり。しかし怒られることはなく「よく正直に言ったね、あなたはオネストマン(正直者)だ」と1ドルをくれました。それが美容師人生で、私がもらった最初で最後のチップです。
マリネロでは800時間ほど学び、カルフォルニア州の美容師免許を取得しましたが、こんな調子だったので、やはり何も出来ないままです。
これでは日本に帰れないと悩んでいると、美容学校の知り合いに「ロンドンはいいよ、モデルも若くてきれい!」と勧められました。この学校からロンドンに渡り、今、最もはやりのヴィダル・サッスーンという新しいカットを教えるスクールで学んでいる人がいると。それが、後に原宿で「boy」を開く茂木(正行)さんです。
矢も盾もたまらず、サッスーンスクールに入学したいと手紙を書いたものの「満杯!」とつれない回答。それでもしつこく手紙を書き続けたら、ようやくOKが出て、1972年9月、ロンドンに渡航しました。
スクール初日、黙々とシザーズを滑らしている東洋系の若者がいて、てっきりベトナム人だと思ったのですが、私と同い年の川島文夫さん(現・PEEK-A-BOO代表)でした。彼は私をカンボジア人だと思ったそうです(笑) すぐに意気投合し、彼の住んでいたアパートを紹介され、以後3カ月のロンドン生活の足場となりました。
ロンドン生活を終え、日本に帰国したのが1973年の正月3日。帰国のフライトは不安、不安の一色でした。実際、母のサロンに行くと先輩のお姉さん美容師たちが手ぐすね引いて待ち構えているではありませんか(笑) 「先生の息子さんが海外で勉強して帰ってきたけれど、どんなもの…!?」と。
結果的に幸運だったのは、私は彼女たちが知らぬ最新のサッスーンカットのテクニックを伝え、彼女たちからは当時の日本で主流だったセットスタイルなどを学ぶというWin-Winのバーターが成立したことです。おかげで、すんなりと溶けこむことができました。
当時の日本は、レザーカットで下地を作り、ローラーやピンカールにセットローションをつけて、お釜のような形のヘアドライヤーに入り、逆毛を立ててスプレーで固めるようなスタイルが全盛でした。
対象的にサッスーンカットは、ブラントカットをしてデンマンブラシを使ってブロードライでつくります。施術に時間がかからず、風になびかせても様になり、自由に街をかっ歩できるヘアスタイルは働く女性たちにとって福音だったのです。
川島さんより先にロンドンに来ていたのがテリィ南さん(現・SUPER CUT会長)です。南さんは1973年の夏に帰国して、サッスーンカットのセンセーショナルなヘアショーを開き、衝撃を巻き起こしました。
その後、アメリカやカナダにあったサッスーンの支店から、今井英夫さん(現・imaii代表)やケネス・ヒスミさんら何人もの男性美容師たちが帰国したことで、サッスーンのヘアカットとスタイルが一気に広がりました。ケネスさんは加賀裕章さん(現・back stage代表)の先輩です。
日本にサッスーンカットを持ちこんだ男性美容師たちはサロンの経営面もがんばりました。女性美容師が中心だった美容業界で、男性によるサロンが一気に増え、70年代後半には、20代、30代の男性美容師たちが一斉に「ロンドン詣で」をするようになります。彼らは日本に帰ってくると、地元のサロンで女性のお客さまに熱狂的に迎えられたのです。
さて私はというと、ロンドンから帰国して間もなくの1975年、ビューティ横田の新店を任されることになりました。場所は、岡山駅すぐ近くの小さなターミナルビルです。国内は大阪より西に行ったことがなかったので驚きましたが、覚悟を決めるしかありません。以前より見込んでいた若い男性スタッフを口説きに口説いて、二人で岡山に向かいました。
当時の岡山にはサッスーンカットは全く広がっておらず、男性美容師もほとんどいませんでした。若かった私はロン毛にパンタロンシューズ、ミニシザーズとデンマンブラシでバシッと決めて勝負。これが大繁盛。自慢話になってしまいますが、東京のサロンを抜いてグループで一番の売り上げを記録し、このことがささやかながら自信になりました。
やがてロンドン帰りの男性美容師の希少価値も下がり、そうして始まったのがダンピング競争です。
その現象に危機感を覚え、美容業界として美容人口の増大を図りつつ顧客にしっかり感謝をしよう、自分のサロンだけが良ければではなく美容業界全体の活性化を図ろうと始まったのが「全国美容週間」運動でした。
スタートは1979年。初代実行委員長は故・瀧川晃一さん(タキガワ前会長)。『美容界』(女性モード社)の「美容界内閣」という企画から発展したものです。
9月4日にあわせた「くしの日キャンペーン」では、亡くなった瀧川和秀さん(滝川前社長)や蒲生茂さん(ガモウ会長)らと一緒にくしを配りました。私は5年間の事務局長を経て、平成元年(1989年)に11代目の実行委員長を務めました。今年は吉田牧人さん(Lond代表)が45代目の実行委員長として、SDGsの提言に取り組んでいます。
サロンワークや雑誌撮影などのクリエイティブ活動と併せて、さまざまな業界トップクラスの方々と親しく接する機会を得られたことは、二代目だからこその幸運だったと思います。
それが後のインターコワフュールジャパン(ICD Japan・世界美容家協会)や日本ヘアデザイン協会(NHDK)への入会から会長、理事長職の拝命につながったと思います。
現在のNHDK理事長職は、お世話になった美容業界への最後の恩返しのつもりです。いずれにしても、多くの接点から幅広い世代の友人が出来ました。業界の皆さんとの交流は自分の財産ですし、大切な人生の肥やしになっています。
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