横田冨佐子が美容の道を歩んだのは、全くの偶然からでした。江戸っ子生まれの教育者だった私の祖父が、岐阜県高山市でいまの斐太高等学校の校長をしている時に母の冨佐子が生まれました。
太平洋戦争中にその祖父が急逝し、一人っ子だった冨佐子は、東京府立第五高女(現・都立富士高等学校)在学中に学徒動員令により女子報国隊員として17歳で中野の実家から荻窪の中島飛行機製作所の工場まで通っていました。そこで課長をしていた一回り年上の父・数馬に見初められ、その後東京大空襲で被災した冨佐子を父が見舞ったことがきっかけで戦後の翌年に結婚。
戦後、中島飛行機は解体され、その出身の技術者らが集まってプリンス自動車(富士精密工業)ができました。父もプリンス自動車の管理職として働いていましたが、インドへ赴任することに。
当時のインドは治安や衛生が良いとは言えない場所です。幼い私を世話していた婆やさんに「旦那さまに何かあったときのため、手に職をつけておくべきです」と言われたことがきっかけで、母は美容の仕事を始めました。そうして三鷹の小さな家を改築して開いたのが「フサ美容院」です。
頑張り屋だった母は、徐々にサロンを拡大してスタッフも増えていきました。よく覚えているのが年末年始の光景です。大晦日は美容室に来るお客さまがとても多く、クタクタになるまで働いた後は、家のこたつでスタッフと一緒に雑魚寝。元日の昼頃に起きて、今度は初詣に出かけるお客さまのために結いあげをしていました。
私は小学校から進学校に通っていたのですが、髪にグリーンのメッシュを入れている母が父兄会に来るとやっぱり派手で目立つんですよね。級友から冷やかされてカチンときました。
「母は仕事で髪を染めているのであり、僕は何も恥じていない」と作文に書いたことを覚えています。母は一生懸命仕事をしていましたし、サロンも繁盛していましたから、とても誇らしかったですね。美味しいものもたくさん食べさせてもらいました(笑)
先代から引き継いで私が社長に就任したのは60歳のときです。それから15年、今年からファミリーにサロン運営の権限を委譲して、若いスタッフと共にサロンを引っ張ってもらう体制にしました。私自身は、名誉会長として側面からサポートしていきます。
近年は、経営環境が大きく変わっていることを実感します。いわゆる貸し鏡方式のシェアサロンがかなり幅をきかせています。教育サロンを辞めて個人事業主としてシェアサロンで働く人が増えるなか、従来型サロンはどう対策するのか課題です。
ブライダルと着付けについては需要減を実感します。何よりこの3年間のコロナ禍によるダメージ、これは業界全体、もちろん私どものサロンにも非常に大きいものがありました。サロンやスタッフにやる気があっても、出店している駅ビルや百貨店自体が月単位でクローズして営業できないケースもあり、月間売り上げが前年度の2割以下に落ち込む店舗もあったほどです。
厳しい時期を乗り越え回復基調に入ったため、会社としてはバランスが取れるようになりました。それでも、ブライダル関係はビジネスとしてかなりの厳しさが続いていると感じています。少子化による式数の減少と、結婚当事者である若い世代の意識変化によるものです。立派な結婚式場に大勢の参列者を招くような結婚式は、今後も減少が加速していくのではないかと思います。
美容業界としても危機感があります。昨今、シェアサロンが次々とオープンしている現象は、従来の経営方式に対する挑戦と同時に、深刻な反省材料を提起しています。
また、少子化問題もあります。今後10代後半から20代の若者が美容業界に潤沢に入ってくるとは考えられません。私たち団塊世代の出生数は270万人、それが今は3分の1以下。今後さらに減っていく限られた若者をさまざまな業界が奪い合う中で、美容業界に憧れて入ってくる人がどれだけいるでしょうか。
ファッションを売る業界ですから、一番望ましいのは、常に若い人たちが入ってきて、トレンドを発信していくことだと思います。しかし全国25万軒を超えるサロンがある中で、それが出来るのは一部に限られます。
生産性の低さも問題です。70年代までは物価が高騰すれば値上げに転化、いわゆる便乗値上げも出来ましたし、給与も上がりました。しかしバブル崩壊後の「失われた30年」のデフレ基調、また業界特有のオーバーストア状況の中で、美容の施術料金はほとんど据え置きのままです。当然、給与も上がりません。
美容師の給与を世間並みの水準にするには、一人ひとりの生産性を上げる必要がありますが、千円カットが流行する昨今、カット料金を7千円、1万円と引き上げるのはなかなか困難です。さまざまな付加価値をそれぞれのサロンが提案して客単価を引き上げるしかないでしょう。
残念ながらニューヨークやロンドンどころか、アジア各都市に比べても、日本のカット料金を含む客単価は低迷したままです。お客さまをつかんだ上で、どうやって納得を得ながら客単価を上げていくか、単価をあげられない場合は何をしていけばよいのかを、業界全体で考える必要があります。
地元密着、固定客密着型のサロンになりきるのも一つの方法。後期高齢者になった私たちの世代が100歳まで生きていくのをお手伝いする、ケアサロンとなる道です。
子育てが終わっても、現場から離れて久しいと職場復帰が不安だと感じている“ママさんプレーヤー”を活かすことも考えるべきです。美容師免許と技術を持っている隠れた人材を積極的に発掘する必要があります。
私たち美容師はやっぱり技術者なのです。美容師の持っているクラフトマンシップを大事にしながら、どう経営に活かしていくか。それぞれのサロンの生き残りをかけた工夫のしどころでしょう。
ヘアショーやコンテストなどのクリエイティブ活動で、美容業界に憧れる若い人材を増やすのも大事です。私自身、サロンワークや経営を行いながら、クリエイティブ作品を創作していました。1978年、30歳の時から四半世紀にわたり美容業界雑誌に作品発表をしてクリエイターとしての喜びと誇りをつちかってきました。
店販を増やしていくのも一つの方法です。サロン売り上げの5%だ、いや10%だとかいう世界ではなく、技術売り上げが半分、店販売り上げが半分の世界を目指す。従来のお客さまに買っていただくだけでなく、若いお客さまにアピールし、新規顧客につながるようなブランドの商品を増やしていくことがポイントです。
私どものサロンは、1950年に創業してから73年を迎えましたが、時代の流れの中で仕切り直しを考えていかないと、少なくとも同じやり方ではいけないと感じています。コロナ禍を経て、今の美容業界はさまざまに試行錯誤をしている最中です。新しい時代に合わせたサロン経営をしていく、今はその境目にあると思います。
横田 敏一
株式会社ビューティ横田 代表
YOKOTA TOSHIKAZU/1948年5月生まれ。株式会社ビューティ横田代表取締役名誉会長、美協日本ヘアデザイン協会(NHDK)理事長。慶應義塾大学経済学部を卒業後、ビューティ横田に入社。インターコワフュールジャパン(ICDJapan:世界美容家協会)会長、東京都美容訓練協会(TBKK)会長、全国美容週間事務局長および11代目実行委員長、ブライダルの装い協会理事長、横田冨佐子総合美容文化会副会長などの要職を歴任。
編集・文/大徳明子 文/大山くまお 撮影/漆戸美保
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