「モダンジャズの帝王」と呼ばれるマイルス・デイヴィス。
「音楽性を変化させ続けたマイルスの生き様にあこがれる」という山崎研人さん(オンザコーナー代表)もまた、原宿の大手サロンから小規模サロンや業務委託サロンでの勤務、アルバイト生活、そして独立と、その歩みを変化させてきた美容師さんです。
連載『Jobシンガー・missatoが行く』第6回は、山崎さんに仕事観や音楽について聞きました。
目次
「働く人に寄りそって曲をつくり歌います」
こんにちは。Jobシンガーのmissato(みさと)です。
Jobシンガーとして、さまざまなしごと場に取材にいったり、現場作業を体験させてもらい、職業の曲を作詞作曲、歌う活動をしています。今は「美容師の歌」「保育者の歌」「タクシー運転手の歌」など11曲になりました。
この4月からレインボータウンFMで、「はたらく × おんがく」のパーソナリティーを務めることになりました! 毎月第2月曜日の20時~21時です。ぜひ聴いてくださいね。
今回の音楽好き美容師・山崎研人さん
山崎 研人
やまざき・けんと / on the corner 代表
原宿の大手サロンから小規模サロンや業務委託サロンでの勤務を経て独立。2011年に「on the corner」をオープン。多毛な方のカットを得意とする。趣味は写真撮影、動画や画像の編集、音楽制作と多岐にわたる。
▽Instagram=@onthecorneryamazaki
on the corner(オンザコーナー)
2011年4月、高円寺のパル商店街にオープンした「多毛カット専門美容室」。美容師や多毛で悩む人向けの技術動画を積極的に発信。YouTubeの【多毛カット専門店】似合わせカット美容師タカ&山チャンネルでは1500本以上の動画を公開しており、登録者数は6800人に上る。また、TikTok(@konthecorner_yamazaki)のフォロワー数は1万人を超える。
▽住所=東京都杉並区高円寺南3-58-29 ふもとビル2F
①美容師という仕事
―― 多毛カット専門美容室という新分野を開拓された山崎さんの人生ストーリーを聞きたいです。まずは、美容師になったきっかけを教えてください!
高校卒業後の進路を決める時、苦しまぎれに選んだって感じです。でも、おしゃれは好きで、裏原系のサブカル好きが読む雑誌『CUTiE』を愛読していました。
原宿や表参道の美容室特集がかっこよくて印象に残っていて。それが美容師という職業を意識した最初だったのかも。
―― 当時は、どんな美容室に通っていたんですか?
地元の宇都宮では、けっこう最先端な美容室でした。
90年代半ばに、青いファイバー系のエクステをメッシュみたいにつけていたので。
金髪にした時は、怒った母親に坊主頭にされたし、青いエクステをつけて登校した時は、先生に地毛ごとハサミで切られましたけど 笑
―― 東京に来たのはいつですか?
美容学校からです。僕が原宿・表参道の美容室に憧れているのを母は知っていたから、「東京でがんばれ」と背中を押してくれました。
就職の時も原宿の美容室ばかり受けて、運良く「Studio V」に決まりました。坂巻哲也さんのいたところです。
―― 名店ですね。「Studio V」にはどのくらい勤めたのですか?
それが2年で辞めました。渋谷店に異動するのがイヤで。今となっては笑っちゃうんですけど、原宿という場所に固執していました。
原宿の美容室を探したのですがなかなか決まらず、宅配の弁当屋でアルバイトを始めました。
美容業界を離れて弁当屋に
―― お弁当屋さんでアルバイト! どんな職場だったんですか?
弁当屋で働くと余りをもらえたり、まかないが充実していたりで、食べるのに困らないんです。
だからか、売り出し中のバンドマンやラッパーがいっぱいいました。渋谷って場所柄もあると思います。異動をいやがった渋谷です 笑
―― 音楽が好きな山崎さんにとっては気の合う仲間ですね。
居心地はよかったですね。
DOPING PANDAのHayato Beatさんもいました。今はプレミアがつきそうですが、「ドーピングパンダ」ってカタカナで書いてあるステッカーをもらいました 笑
―― ミュージシャンが生まれる、すごいお弁当屋さんですね! 山崎さんはどうやって美容業界に戻ったんですか?
すごい偶然なんですけど、何度も弁当を配達していた「COKETH(コークス)」という美容室が人を募集していたんです。
―― 面接でバレませんでした?
すぐにバレました 。「弁当屋の人じゃん」って 笑。でも決まりました。
弁当屋の居心地がよくて「このままここにいようか」と思った時もありましたが、結局いたのは半年でした。
原宿の大型サロンから弁当屋、そして再び原宿へ。当時は個人店に近い規模でしたね。
基礎から学び直した人生の転換期
―― そして次が独立ですか?
いえ、COKETHで7年働いた後は、業務委託サロンを点々とします。
僕、スタイリストデビューがすごく遅くて、7~8年くらいかかったんです。同期はどんどんデビューしているのに、なかなかできなかった。どうにかスタイリストになったら、燃え尽き症候群みたいになっちゃって。
スタイリストを1年くらいやった後、COKETHを辞めて、業務委託サロンに移りました。
―― 業務委託を選んだ理由は?
仕事に燃え尽きちゃって、今度は好きなことに時間を使いたくなったんです。自由出勤でそこそこ稼げるというのが魅力的に思えました。
業務委託になってからは、フジロックに3年連続で行き、スケボーにもハマりました。稼いだお金はほぼ全て趣味に費やす生活です。
―― そんな自由な生活を手にしたのに、なぜサロンをオープンしようと思ったのですか?
業務委託という業態が合わなかったんだと思います。自分のスキルに納得がいっていないのに、なんとなく稼げることに嫌気がさしたんです。
キャリアのスタートが、最先端の美容師がたくさんいるサロンだった影響もあると思います。
今はよくても将来は稼げなくなるんじゃないかという危機感から、自分の技術を磨いて独立しよう、と。
―― そのために何を?
一念発起して、カットの技術をイチから学び直すため、DADA DESIGN ACADEMY(D.D.A)に通うことにしました。20代後半の結婚したタイミングだったし、もう背水の陣です。
DADA CuBiCを創業した植村隆博さんは、美容学校時代からの憧れの存在でした。だから、カットを学ぶならD.D.Aしかないって思いました。
D.D.Aに通い始める少し前、40代半ばで植村さんが亡くなられて。一度でいいからお会いしたかったです。
恐縮ですけど、植村イズムを受け継ぐ気持ちで、慢心せず日々スキルを磨いています。今も、スタッフルームには植村さんの写真を飾っているんです。
―― 強い思いを感じます。それでも働きながら、学校に通うのは大変では?
課題が本当に多かったので大変でした。サロンで働く以外、自分の時間はほぼすべて課題に当てていました。
ただ、それは他の生徒も同じ。切磋琢磨できる環境に身を置けたのがよかったと思います。
―― 自分を追い込む環境ですね。
D.D.Aに通うという決断が、確実に人生のターニングポイントだったと思います。
受講料が高額だったので、やるからには途中で辞めたくないし、ハサミの持ち方から何から何までマネして、絶対にモノにしてやるって思いながら2年間通いました。
②店名の由来
―― ところで、これだけ原宿にこだわってきたのに、なぜ高円寺にお店を出したのですか?
『CUTiE』を愛読していた高校生の頃から、サブカル好きというのがあって。上京後は中野の辺りに住んでいたんです。
それでサブカル文化の根づく中央線沿線で物件を探しました。ちょうど高円寺を歩き回っていたら、ビルから荷物を運び出している人を見かけたんです。
引っ越しだ、物件が空く!と思って話しかけたら、まさに引っ越し最中のビルのオーナーでした。
ビルの建て直しでこれからテナントを募集するというので、その場で美容室として入りたいって言ったら、とんとん拍子に決まりました。
―― 偶然の出会いですね。店名をオンザコーナーにしたのはなぜですか?
理由はいくつかあるのですが、一番は物件が角地にあったから。自然光が入る角地ってこの商店街の中にほとんどないんですよ。
それで、大好きなアーティストのマイルス・デイヴィスのアルバムタイトル『On The Corner』からつけました。
常に音楽性を変化させてきた人で、早すぎて時代がついてこれなかったくらい。その生き様にあこがれています。自分も変化し続けられる美容師でいたいという想いを込めました。
実は当時、この店の斜め前には「BITCHES BREW(ビッチェズ・ブリュー)」というTシャツ屋さんがあったんです。この店名もマイルスの曲です。マイルスのタイトルの名前の店舗が向かい合っていたら面白いなと思って。共通点があるから、Tシャツ屋の店長さんとはすぐに仲良くなりました。